ソビエト連邦
1964年10月のフルシチョフ更迭後登場したブレジネフは、当初コスイギン首相、ボドゴルヌイ最高会議幹部会議長とともにトロイカ体制を敷きましたが、クレムリン人事によって党、国家におけるブレジネフ書記長の指導権が確立しました。ソ連の内政では経済の本振が目立ち、過去の5力年計画にくらべて低めに設定された第9次5力年計画の目標も達成が危ぶまれていました。工業の管理制度の一層の効率化を狙った企業合同の推進、各種賞品付の農産物増産作戦は、国民生活優先を最重要課題とする第9次計画を、是が非でも達成したいとするブレジネフ政権の意志の表れでした。しかし重工業優先の思想が体質化しているだけに、ソ連市民のサービス識争に納得のゆく回答を与えることは決して容易ではありませんでした。アンドロポフ国家保安委議長の昇格にもみられるように、ソ連の国内体制の引締めは一層厳しいものになっていました。反体制知識人の逮捕、映画や文芸の分野にみられる整風は緩められることもなく、他方ではプブレジネフ体制を新スターリン主義と規定し、これに頑強に抵抗する知識人の運動は衰えをみせていませんでした。サハロフ間題やソルジェニツィン間題に強引な結着がつけられる恐れもあって、彼らの希望する自由化は実現しそうにもありませんでした。
西側世界との関係では、ブレジネフは平和共存外交を推し進め、積極的協力外交を展開するものと思われていました。73年5月の西独訪間、6月のアメリカ訪間、グロムイコ外相の政治局登用はその表れでした。共存路線は元々ソ連外交の基本ですが、ブレジネフがシェレストらの対米強硬路線を退けて積極的協力路線を推進する理由は、政治面では、米・ソ・中・ECの四極ゲームの中でソ連の地位を固めるためであり、お金や経済面ではソ連経済の停滞を克服し発展を加速化させ国民生活の家計水準を引上げるため、西側先進資本主義国との国際分業、とりわけ米ソ経済交流、西独や日本との経済協力の活用に踏み切ったことです。グレチコ国防相の政治局入りは第二次戦略兵器制限交渉、SALT、東西欧州兵力の相互均衡削減交渉、インドシナ問題、中東問題、中ソ対立を考慮しでの人事ででした。社会主義世界内部では、中ソの対立は一向にやみそうもなく、中国はソ連を社会帝国主義と規定し、アメリカ帝国主義よりも危険な敵だとしていました。ソ連は中国を反レーニン主義的大国主義と規定し、国連その他の外交舞台で鋭く対立していました。しかし中国の国連代表権回復、対米関係の改善、文化大革命後の党組織の再建の中で、対ソ関係調整の動きもでてきていました。73年7月には中ソ航空交渉がまとまり、8月には73年度貿易協定も調印されるなど、両国は実務関係を改善し、国家関係の悪化を避けようとする努力を払っていました。ソ連・東欧圏では73年7月にソ連の保養地クリミアで社会主義8力国首脳会談が開かれ、平和共存外交の推進をうたったコミュニケが発表されました。会談では、ソ連の対西方外交の基本路線が承認され、ブレシセネフ書記長のフランス、西独、アメリカ訪間が評価されました。この時東欧諸国はすでに西独との国家関係の改善を終えており、アメリカとは元々直接的敵対関係に無かっただけに、東欧諸国と西側先進諸国との協力関係は、今後いっそう早いテンボで進むものと思われていました。東欧各国の情勢では基本的には、ソ連が抱えている問題は、すべて東欧各国にも共通に存在するといっても過言ではありませんでした。
中国の友邦アルバニアは、ニクソン訪中以後、中国と見解を異にする傾向をみせはじめました。コメコンを非難しECを持ち上げ、アメリカ帝国主義より、むしろソ連修正主義を強く攻撃する中国に、アルバニアのホッジャ政権は同意していませんでした。アルバニアとユーゴ、ブルガリアなどの周辺諸国との関係は改善されており、アルバニアとソ連が和解する可能性も出て来ていました。プラハの春の傷跡の深いチェコは、チェコ事件の教訓を噛み締めつつ、かつては中欧髄一の繁栄を誇った栄光をとり戻すべく努力中でした。

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